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FEATURE

文化体験は現代を生き抜くためのチカラを養う。汐見稔幸先生に聞く、カルチャーの価値

子供たちに、より気軽に、より豊かな文化に触れる機会を得てもらいたい。TOKYOカルチャーデビューは、そんな願いをかたちにするために生まれたプラットフォームです。では、子供たちが文化体験を得ることの、そもそもの意義とは何なのでしょうか。幅広い文化という領域の中で、どんなものにどう触れることが価値ある体験となるのでしょうか。こうした素朴な疑問の数々を、東大名誉教授で、日本保育学会会長でもある汐見稔幸先生に聞いてみました。

体験が育む「工夫する」「感じる」「ひらめく」力

汐見先生は、子供たちが豊かに育つためには「五感を通じた“体験”が重要だ」と説かれています。なぜ、子供たちにはそうした体験が重要なのか。その理由から教えてもらえますか。

結論からいうと、体験こそが、私たちの「非認知能力」を育むからです。非認知能力とは、テストの点数や偏差値などと違い、数値化して測れない能力のことです。たとえば「ものごとにやる気をもって取り組む」「相手のことをおもんぱかってコミュニケーションをとる」「ゼロからアイデアを生み出す発想力」といったものです。いわば、人間が生きるための土台となるような力ですね。

こうした非認知能力は、教室の机に座って学ぶのはとても難しいんです。外に飛び出し、自然の中で遊ぶ体験や、料理や掃除でも何でもいいのですが、身体性をともなった行い、つまり体験によってこそ学べる領域なのです。

「体験が重要だ」といっても、一部の人しかできないような貴重な体験である必要はないんです。海外旅行に行くことや、一流の講師のもとで習い事をする、といったことに限りません。

汐見稔幸(しおみ としゆき)|1947年 大阪府生れ。教育・保育評論家。

なるほど。なぜ、座学では非認知能力が育まれにくいのでしょうか。

座学、とくに学校教育の中で学ぶ内容が、基本的に「答えがある」ことばかりになるからです。

「このような問題を解くためには、この公式をこう使いましょう」「こうした文章を読解するためには、これらの語彙と理解力を駆使しましょう」。学校で教えることのほとんどは、ひとつの答えが決まっているものを正確に覚えて再現できるかどうかの訓練です。

ひるがえって、外遊びや自然の中、あるいは暮らしの中でぶつかる課題は、答えがひとつではありません。

たとえば、昭和の頃に子供だった世代の方ならば、ちょっとした路地裏や空き地で近所の子供たちと遊んだ経験がある方もまだいると思います。

路地や空き地には遊具なんて設置されていません。サッカーやバスケットのゴールも設置されていない。けれど、みんなでボールを持ち寄って、適当な塀をゴールに見立ててサッカーをしたり、バスケットをするなどして遊んだと思います。

凸凹した路面だから、整備されたコートのように正確にボールがバウンドしません。けれど次第に「あそこにボールがバウンドすると、左側にそれるな」といったコツを自然とつかめるようになる。

試合や授業じゃないから、際限なくゲームを続けられます。けれど、体力のない子にムリさせるとケガしやすくなるから、自ずと「〇〇くんがつらそうだから、ちょっと休憩しよう」などと表情から他人の状況を感じ取る、なんてことが当たり前にできるようになったはずです。
 
そして、遊んでいるうち少し空気が湿り気を帯びてきて、冷たい風が吹いてきたら、「雨が降りそうだから、そろそろ切り上げようか」なんて誰かが察知していう。「まだ大丈夫だよ!」なんて主張する人もいて、ギリギリまで遊ぶけれど、やっぱり土砂降りにふられて、さんざんな思いをしたりもする。
 
ようするに、外遊びのような体験は「偶然」の連続なんです。だから良い。たったひとつの正解なんてない中で「こうじゃないか」「ああしたほうがいいかな」と試行錯誤せざるを得ません。
 
その結果、それぞれの頭で考えた臨機応変な対応策や、生きる知恵ともいえる判断能力が身につくわけです。
 
外遊びだけじゃなく、自然に身を置くことでも非認知能力は磨かれます。その都度、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった五感を活用して工夫して、何とかその場で最適な答えを見出して行動するという経験が大事なんですね。

一方で、今はかつてのように子供たちが「外遊び」をする機会や、自然に触れる機会も減っています。

そうですね。とくに都市部では路地や空き地で遊ぶような余白は少なくなりました。安心・安全の面からも、子供たちに無防備に外遊びや自然の中に飛び込ませるようなこともしづらくなっています。

加えて、ゲームやインターネットなどのインドアでの遊び道具が高度に発達したことも、その傾向に拍車をかけています。ただ、その結果、子供たちの非認知能力は、かつてより育まれにくくなっている側面があるのではないでしょうか。

少し前のデータですが、山梨大学の中村和彦教授(現同大学長)らの調査(※)によると、2007年の幼児と1985年の幼児を比較したところ、2007年の5歳児の運動能力が、1985年の3歳時のそれと同等ということがわかりました。筋力は負荷がかかって鍛えられるものです。要は、外遊びや自然に触れ合う機会が減ったこともおおいに関係しているでしょう。身体を動かす機会が減ったため、かつて子供たちの運動能力が下がったわけです。それは筋力だけの話ではありません。

非認知能力も育まれる機会をなくしてしまった子供たちが増えているということでしょうか。

そう思います。さらに大きな問題は、現代が、まさに非認知能力をより強く求められている時代だということです。

『発育発達研究』第51号「観察的評価法による幼児の基本的動作様式の発達」

変化の激しい現代に高まる“カルチャー”の価値

非認知能力がより求められている時代、とは?

今は社会の変化が極めて激しく、これまでの常識が通用しないケースがとても増えています。少子高齢化といった外部環境の激しい変化と同時にAIなどの高度な情報技術が普及しています。その結果、市場が縮小したり、仕事のあり方そのものが変化したりしています。

ようするに、時代の変わり目を迎えた今は、予想できない変化が連続的に目の前で起きている。まさに正解のない時代です。正解がないなかで、五感をなんとかやりくりしながら、それぞれが「最適解」を見出していくしかありません。

そうした変化の激しい時代を生き抜くためにも、子供たちには人々の営み、つまり文化のなかでさまざまな体験をしてほしいのです。

ただ、私は子供たちに「このような体験をさせなければならない」などとお膳立てする必要はないとも思うのです。

大人が最低限の誘導をする必要があるかもしれませんが、「ここではこうして遊べ」とか「絵はこう描くべきだ」などと指図するのではなく、あれこれ試行錯誤する余白を子供たちに与えることこそが重要です。

時代を問わず、子供たちはそうした環境に身を置けば、そこで起きる偶然にあれこれと考えて自然に動きだします。自発的に頭と手を動かし始めるのです。

カルチャーの本質は、自らなにかを“耕す”プロセス

都会では外遊びや自然に触れる機会が少ない反面、芸術などの「カルチャー」に触れる機会は溢れています。

文化体験は、まさしく非認知能力を高める価値ある体験です。もっとも、ここで言う「文化」が指す意味は、何も高尚な美術や音楽を鑑賞することだけではありません。

よく言われますが、そもそも英語で「文化」をあらわす「culture(カルチャー)」という言葉は、「(土を)耕す」の意味である「cultivate(カルティベイト)」から派生しています。

文化とは「耕す」ことに近い。

そうです。いわば、手間ひまかけて価値あるものをつくることこそが「文化」だと思っています。

つくるものが、音楽だろうと、絵画だろうと、あるいは料理や掃除といった生活をよくするちょっとした営みや、外遊びの工夫だろうと同じ。そうやって頭と手を使って、あれこれ工夫しながら何かをつくる。

その過程の中で、ワイワイガヤガヤと他者との関係性が生まれるうちに、チームワークの育み方を身に着けたりできるものです。あるいは、創意工夫をあれこれと試しながら、自分なりの発想法を手にしたりする。非認知能力が、育まれる。

良き芸術文化作品に触れることが、「やってみたい」に火をつける

文化に触れるだけじゃなく、作り手、担い手になること。「絵を描く」「演奏する」「料理する」。こうしたプロセスこそが子供たちにとって大切な文化体験なわけですね。

そうだと思います。今は、AIが当たり前のように生活に普及して、子供たちも普段から活用するようになっていますよね。しかし、AIは過去の情報を拾い集めて、予測して、最適解を弾き出しているしくみです。いわば、文化的なプロセスを外注しているようなもの。それはとても便利なようで、自ら文化を体験する機会を減らしてしまうとも言えます。つまり、非認知能力を磨く機会を、自分から無くしているようなものともいえるのです。

AIを使うな、というのは現実的ではありません。しかし、少なくともそうした自覚をもってつきあっていく必要はあるのではないでしょうか。

自ら実践してプロセスを体験する、という行為が重要な一方で、美術館で絵画を鑑賞したりコンサートで音楽を聴いたり、といった文化体験も同じく大切なものなのでしょうか。

とても大切だと思いますよ。先に述べたように、文化は何も高尚な作品に触れることではありません。手を動かして、何かを作り出すことにこそ価値がある。そして、そうした創作意欲やものづくりのモチベーションは、「良き文化作品に触れる」という経験を味わっているからこそ生まれるのです。

一流のアートやすばらしいステージに幼い頃から触れることは、そうした意欲の芽を生み出すことにつながる。「自分もあんな作品をつくってみたい」という気持ちに火を点ける良き機会になるでしょう。

文化は庶民の営みから生まれるものですが、その延長線上にさらなる高みがあることを子供のうちに知っておくことは、とても大事だと思いますよ。

子供たちに与えてほしい「没頭する機会」と「反芻する時間」

そうした文化体験をさせる際に、親が心がけるべきことはありますか?

たくさんある文化体験の中で、何を選べばいいかわからないという方もいるでしょうが、基本的にはお子さんが興味を持ったジャンルでいいと思います。こちらから作為的に仕向ける必要はありません。むしろ何かに没頭する、熱中する。そんな機会を与えることが大事であり、それはむりやり押し付けることでは生まれにくいですからね。

そのうえで、むしろ心がけてほしいのは、「文化体験を反芻する時間」をつくってやることですね。

人間は体験を言葉にすることで、その体験に意味を与えます。たとえば、「犬が一匹いる」という言葉を聞くと、頭の中で「一匹の犬」をイメージするはずです。ただし、実際にイメージした犬がどれくらいの大きさで、どんな犬種で、何色かなどは人それぞれ違います。かつてそれぞれの人生で見てきた「犬」をあてはめて想像するからです。

逆にいえば、自分が見た動物を「あれは犬だ」と認識しなければ、そうした逆引きができません。見聞きした体験を、言葉として整理して認識する作業が欠かせないのです。

そこで体験を言葉にして、意味を手に入れるわけですね。

ですから、夕食のときにぜひ話を聞いてあげてください。その日、親子で展覧会に行ったなら「どんな絵に心が動いたのか」「なぜそう感じたのか」を聞く。子供が区のホールでコンサートを鑑賞してきたなら、「どんな演奏だったか」「どんな気持ちになったのか」を聞く。

ただし、このとき、一方的に「どうだった?」「具体的に何を感じた?」と聞き出すのはいけません。

つい、やってしまいますね。

それは子供にしてみたら、対話ではなく尋問でしかありません。人は一方的に情報を引き出されることに不公平とともに不安を感じますから。

だから、「一緒にいった展覧会、私はあの絵が好きだった。なぜなら……」とか。「コンサート行ったんだって? 私も先月に行った演奏会に感動して……」とか。

そんな感じで保護者側も文化体験で何を感じ取ったかを言葉にすることを意識しましょう。すると、それが呼び水になる。子供たちは親のそうした言葉を受けて「なるほど。そういうふうに感じるものなのか」と、意味をつかみとれます。そして、「僕はこう感じたな」と自らの体験を言葉にしやすくなるのです。

いわば見本として、保護者のほうが「今日は何をみて、どう感じたか」を食卓で話すようにすればいいのですね。

やはり親は子供の鏡になりやすい。体験を積極的にすること、すばらしい文化に日々触れ、自ら手を動かすこと、何かに熱中すること、食卓でそうした体験を言葉にすること――。すべて子供たちにやらせようとするのではなく、自分が率先してやってみたら、気がつけば、子供たちは多くの文化体験を積み上げて、豊かな人生を歩んでいるはずです。

汐見稔幸(しおみ としゆき)

一般社団法人家族・保育デザイン研究所 代表理事、教育・保育評論家、東京大学名誉教授・白梅学園大学名誉学長・全国保育士養成協議会会長・日本保育学会理事(前会長)

1947年 大阪府生れ。教育・保育評論家。専門は教育学、教育人間学、保育学、育児学。21世紀型の保育、学校を模索中。How toだけでなく、なぜそうすべきかを原点から考えようと努力し、それを保育者たちと共有する研修を追求している。保育が深い意味でおもしろい!と思えるようになりたいと願っている。 

一般社団法人 家族・保育デザイン研究所